AllUser.Count(合計):

序 章 「 空 虚 」

 これを読むと、美悠 嶺二がどんな人で、どんな考えを持って、どんな生き方をして、どんな作風にしようとしているのか。伝わる「かもしれません」。
 加筆・通常文章は黒字、過去の事となった事象は灰色と訂正線で表されています。

  初版:開設時
  二版:平成二十七年八月二十八日
  三版:令和三年四月二日

 

遠い昔の話、という程のものではないのかもしれない。

 昭和の終わりが近づく頃。台風の過ぎ去った七月の話。
 福島県某郡で、ちょっとだけ首を変な方向に曲げながら私は生まれた。
 私にとっての「世界」とは、ここから始まる。

 出生届は現在住んでいる静岡県に提出した。
 だから、私の故郷はふたつある。

 母子手帳に書かれた福島県。
 出生届が受理された静岡県。

 私のことを書き出そうと思えばキリがないだろう。とはいえ、何も書かないという訳にはいかない。とりあえず、一番古い記憶から辿ってみようか。

 元号が平成に変わり、幼稚園の頃のこと。今でも時折思い出す、とても旧く、懐かしい記憶。
 私はどちらかといえば「からかわれっ子」あるいは「弄られっ子」だった。
 自由時間は外に出るほうが好きで、砂遊びや遊具を使った遊びより、友人たちと追いかけっこしたり、走り回ったり。そういう方が好きだった。
 この頃が最も幸せな時だったのかもしれない。何も考えず、ただ只管(ひらすら)に時間を消費してゆく。
 ……という一面もあったが、実は校舎(正しくは園舎と呼ぶべきか)の裏やバルコニーの上で静かに過ごすのが何よりも好きだった。だから小学校に上がる前あたりでは、園舎裏の日陰とか、非常スロープ――滑り台の避難路――の上なんかで、よく過ごしていた。

 通り抜ける風、真っ青な空、遠くから聞こえる声。そういったものが、未だに心に残っている。

   ◆

 それから僅かな後、小学校に入学。この頃からコンピュータというものに触りはじめる。
 私は、どっちかといえば社交的な人間であると信じていた時期である。そして、それが仇となったのもこの頃であった。
 低学年の頃は「まぁまぁ優秀な人間」だったようだ。仮定する理由は、少なくとも「落ちこぼれ」とか「言うことを聞かない」「わがまま」という言葉を聞いた覚えがないからだ。不思議なことに幼稚園の頃の記憶は色々と覚えているものだが、小学校3年生くらいまでの記憶は乏しい。
 唯一はっきり覚えていることは、とにかく鬼の早起きで、用務員の人が学校を開ける前に、校舎が開くのを待機していた程だ。

 小学校高学年の頃からの記憶については、自分が思っているよりもかなりのことを思い出すことができる。
 いじめてきた(或いはからかってきた)相手を背負い投げで吹き飛ばしたり、校舎の隅っこのほうで静かに本を読んだり、何も考えずに窓の外ばかり見続けたり、……ああ、そうだ。社交的な話。これも確か高学年くらいの頃の話だったかな。ちょっと話をしよう。

 転校生。女の子だった。転校生と聞けばどういう人なのだろうかと気になるところもあるだろう。
 このようなことを今更ながら書くのは心苦しいが、彼女はまるで「スラム街在住」だった。衣類はボロボロで髪も適当に自分で切ったかのようにボサボサで。でも髪の毛は染めていないのに、当時としては珍しい茶色だった。まぁ兎に角、最悪な表現をするなら「誰がどう見ても孤児院出身です」といったところ。
 子供というのは実に残酷なもので、学校という社会の縮図の中に「異物」が紛れ込んできたとき、大人顔負けの「村八分」、つまり排除を行う。ネチネチとした行動はしない。ただまっすぐに「あっちいけ」である。
 私は彼女のことを好いていた訳ではなかったが……これは恋愛感情的な意味で……別段気にするほどのことでもないと思っていた。人には人の生き方があって、彼女はきっとそういう運命の最中(さなか)にいるのだろう、と。その程度だった。だが、私のこの態度を気に入らない人たちが居たらしい。

 ある日の授業。持ち寄ったり学校にある素材をかき集めて、半被(はっぴ)のようなものと……ええと、これはどう表現すればいいのだろうか。「ラップやアルミホイルの芯を2本デコレート」で良いのだろうか。とにかく、そういうものを作るという授業があった。先生の手にはカメラが一台。ふたり、ないしは三人くらいで、出来上がったら着用してポーズを決めてフィルムに収めるというような流れである。
 私は手先が器用なほうであったが、センスの無さは、それはもう子供の頃からずっと無いに等しい状態だった。出来上がったものも、今から思えばもうちょっと魔改造もとい改良の余地があったのではないかな、と思えるものであったが、それは子供の作るものだし、運動会か何かで一度だけ着用する予定だったはずなので、かなり適当に作っていたのは間違いない。
 そこに彼女がいた。当然、仲間はずれである。彼女が近づいていっても「ほかに一緒のひとがいる」とか言って、誰一人彼女と写りたがらない。どんどん写真撮影が進むにつれて、相手も減る。だから私は言った。
「僕も相手が居ないから、一緒に撮ってもらおうか?」
 半分嘘である。一応、相手は探そうと思えばいる。だけど、放っておくことができなかった。彼女は一瞬困惑か、あるいは驚いた表情をして、にっこり笑って承諾してくれた。その時の写真は、未だに部屋のどこかにある。間違いなく捨てていない。

 周囲の反応がガラリと変わったのは、そこからだった。今考えてみても、そりゃあまぁ当然だよな、とか思う。
 自分達が嫌っている子を誘いに行くような奴だ、こいつも私達と違う存在だね、うんそうだよね、邪魔だよね、あいつ。……そう思われても仕方ない行動をとっていたのだから。でも、私はこの時にとった行動は間違っていないと思っている。

 そしてその頃、母親が家から出て行った。

  ◆

 地元中学校に進学。首都圏のお受験戦争的なことはまったくなく、私は私の地域の中学校へ進学した。小学校の頃の面子と殆ど変わらない。一部が別の中学校に行ってしまっただけで、残りは一緒に三年間お勉強、である。
 小学校時代から殆ど変わらない顔ぶれ、ということは、境遇も等しいものである。中学校時代の私は、結構荒れていた。といっても一度以外、誰かにあれこれと迷惑をかけるような荒れ方をしていた訳ではないと思う。我が道を往く。あるいは一匹狼。そういう人間として生きてきた。

 今の時代だと「不登校」とか言うのかな。そういう感じだと思います。あ、ちょっとまって、学校にはちゃんと通っていました。午後からとか、午前中折り返し地点あたりから。もちろん保健室ではなく教室に。
 ……本当に、心の底から嫌いだったんですよね、学友たちが。あまりにも餓鬼過ぎるというか、逆に私の思考のほうが妙に先を行っていたのかもしれません。とにかく、人との接触は極力避けたかった。同級生とかは特に。常に付き纏う倦怠感。音楽は好きだったので部活は吹奏楽にしてみたものの、周囲は女ばかり。というか男が自分しかいない。どうして?と首を傾げてしまうほどに。とりあえずやれるだけのことはやってみた。人を好きになってみたりもした。

 結果は空振りどころか、もっと酷いことになってしまったけれど。

 私の中学時代は「不信感」で埋め尽くされてしまった。とにかく色々なことがあったのだが、それをここに全て書いてしまうのはあまりにも大人気無い。
 そして今になって思い出し、勘付くのである。きっと、この頃から始まっていたんだな、と。
 友人は少ないけれど、居た。
 ちょっと悪いことをして、おまわりさんのお世話になって親父殿に吹き飛ばされたりしたこともあったけど、とにかく言い様のない衝動か、ストレスか、そういった何かが、私を苛んでいた。

  ◆

 地元中学校から高校に進学。同級生若干名が同じ進路をとった。玉砕相手も一緒だったのは痛恨の一撃。
 ……と、ここで病気が発覚する。休学申請。身体を休めつつ、あちらこちらの病院を転々とする。

 それは、悲しい日々でした。
 朝、目が覚めると身体が動きません。天井か壁を見つめるところから一日が始まる。休学中の学校は比較的近い距離にあったので、開け放たれた窓からは微かに、でも聞き間違うことのないチャイムの音が聞こえます。首を痛めていました。普通の人の場合、首というのは側面から見ると片仮名の「ノ」の字のような湾曲を描きます。でも、私はスラッシュ記号「/」のように、首の骨が歪んでしまっていました。
 目覚めても、すぐには動けない。鈍痛を抑えるために少し温まるまで待ち、それからうつ伏せになった状態に身体を回してから、起床。それが一日のはじまり。敵は自分自身だから、孤独な戦いです。
 そして、治療。地元のかかりつけ医から始まり、市内の診療所や病院、市立病院を回り続け、最後に国立某大学付属病院まで行きました。

 結果はシロ。特にこれという治療もないから、筋弛緩剤でも飲んでうまくやってよ。
 目の前が真っ暗になりました。何ですか、それは。「緊張をほぐすお薬です」ではない。私が必要としているものは、こんな石油合成品の塊ではないのに。

 ……そんなことを思いながら復学。と同時に再発、プラス、体内に石が出来てしまう。
 学校の机というのは思っているよりも自分の身体に合っていないらしく、机を見下ろしていると首に負荷がかかって激痛に襲われる。
 さらに、隣の市の病院で石の検査をしてもらったとき。人生初の点滴を受けました。造影剤というものでして。これのアレルギーに見事命中。今までアレルギーをまったく持っていなかったので、私も担当医も油断していました。

 その両者の症状が激しかったため、復学したものの退校を決意。もう、その時は悔しくもなんともありませんでした。
 世界の全てが憎らしく見えて、世界の全てが自分を拒絶しているように見えて、家族から突き刺さる「厄介者」視線に怯えて、もう、全てがどうだっていいや、と思い始めます。
 私は神を信じないし仏も信じない。もし本当に居るのなら、ここまで過酷な運命を背負わせる理由が思いつかないから。むしろ目の前に現れてくれるなら、台所から出刃包丁を持ってきて、神殺しをしても良いと本気で思う程に。これが私に課せられた運命だというのなら、キリスト教的な赦しの得られない自害をしたって別にどうだって良い。

 天国も、地獄も、すべては人間の創り出した想像図に過ぎないのだから。

 アルバイトを始めることになる。プールの監視員、そしてコンビニ店員。後者は八年以上続けることになる。
 首のことなんて、そのうちなんとかなるだろう。もう知ったことではない。自分が生きるために何をすべきなのか、そもそも、自分は何のために生まれてきたのか。そんなことを考えながら毎日を過ごす。
 形なりだが彼女も出来た。幾度も夜を過ごし、お互いの作る料理を食べ、互いの部屋を行き来する……が、その人とは二〇十一年の冬に「約束」を果たして別れてしまうことになる。相手は自分よりもっと良い人を知ったから別れを求めてきた。これが「約束」だったから、私は素直に了承した。でも、きっと、途中で気づいてしまったのだろう。小学校……否、幼稚園の頃からの知り合いだった女友達に、私が憧れていたことを。その女友達とは、いまだに縁がある。

 時系列は少しズレるものの、定時制の高校に通い、素晴らしき師に巡りあえた。その人は私の人生観を大きく変えてくれたが、やはり私は私だった。本質は変えることができなかった。
 定時制の高校というと「どこにも進学できないような悪ガキが行く、掃き溜めのようなところ」というイメージがあるだろうが、別段そんなことは無かった。同い年の人とも友人になれたし、同じような事情を抱えている人もいた。中には、どうしてこんな才女が定時制に来るんだろう、と思える人も。

 

 そして現在に至る。自営業だが事業を立ち上げ、毎月売上に苦しむ私がいる。
 今までの苦しみに比べれば、こっちのほうが数値化しやすいだけマシというものだ。
 でも、悲しみの連鎖からは逃れることができない。抑うつ神経症、という病気らしい。広義では「うつ」だけど厳密には「うつ」ではない、そんな病気。
 やがて、抑うつ神経症から「うつ病」へと格上げされることとなった。

 

 我が師に尋ねたことがある。

「先生、どうしてそれだけの語学力がありながら、本を書かないのですか?」

 国語、特に古典の教師である師は、こう言った。

「私は狂っていないから。有名な作家を思い浮かべてみて。素晴らしい作品を作って、後世に名を残す作家は、すべて狂っていた。あるいは狂っていった。つまり、良い作品を作るためには狂わなくてはいけない。だが、私は狂っていない。だから良い作品を作れない。それが書かない理由」

 きっと、良い意味でも、悪い意味でも、だと思う。
 常人には理解できない何かがあるから、作品を作れるのだ、と。

 そして私はこう思ったのだ。

 

 ――なるほど、今の私は法医学的に狂っている状態にある。ならば、私は書けるかもしれない。

 

 伽藍洞の桃源郷とは、真っ白な紙か、あるいは画面を指し示すのに丁度良いではないか。

 からっぽの理想郷
 伽藍洞の桃源郷 ……Edenはいいとして、そうだな、私はプログラマだし、変に難しい英語は使わず、サブタイトルはvoidとしておこう。

 

 決まり。

 私がこれからすべきこと。

 ひとつ。白い紙にインクで文字を綴るように、白い画面に黒い文字を生みだしてゆくこと。
 ふたつ。それをすべての人に見える状態にすること。
 みっつ。自分のペースで書いていくこと。強要されても急かされても、ペースは崩さないように。

 

 何も書かれていないところに文章を書くというのは、世界の創造だ。
 平行世界のように、自分達の住む世界とは違う世界を創り上げ、人物を登場させ、そして何かをさせる。
 その世界において、筆者は否応無く「神様」になれる。

 

 伽藍洞の桃源郷とは、悲しいタイトルではない。
 からっぽの器に、理想を注ぎ込む行為そのものなのだ。
 それは楽しい物語になるかもしれないし、悲しい物語になるかもしれない。どちらになるかは分からないけど、私にとっての、そして場合によってはあなたにとってもそこは「桃源郷」になるかもしれない。

 ◆

 このようなことを散々書き散らしてから、およそ六年が経った。
 私は新しい師の下に就き、前時代的、あるいは前世紀的な古めかしい趣味を楽しんでいる。マイペースではあるが、一応、修行の日々を送っている。……という事にしておこう。
 相も変わらず人との関わり合いは好きではないが、それを乗り越えられる師を見つけた。この縁を大切にしたい。

 六年。小説について何も考えてこなかった訳ではない。
 表側では完全に沈黙状態ではあったが、溜めていたものを書き出し、何度も練り直し、設定を見直した。
 現在、小説家になろうウェブサイトで随時修正と更新を行っている。
 新型コロナウイルス感染症の影響で外での活動に影響があるので、インドアな趣味が捗るというものだ。

 その間に、妹が作家になった。喜ばしいことだ。
 ケータイ小説から始まって(文庫本なら数冊以上を打ち込んでいただろう、キーボードパネルを壊す程に打ち込んでいた)、書籍化を果たした。次回作も書籍化させようとしているので、すっかり私は後れを取ってしまったようだ。情けない。

 自営業は相変わらず赤字続きだが、これはまあ、気長にやっていくしかないだろう。
 また、身辺に変化があったら、こちらに色々と書き綴ろうと思う。

 

 

 忘れないで。想像の翼は、誰にでもあって。その翼の降り立つ場所は、幾らでもある。
 メモ1枚の世界でも、そこは「作者の桃源郷」になる。
 チャンスは誰にでも等しく存在する。でも、その物語を創る機会は一度しか訪れない。

 

美悠 嶺二

inserted by FC2 system